佛教大学教育学部通信 日本国憲法 リポート 

法の下の平等について

 「法の下の平等」は、近代憲法には不可欠とされる平等原則である。これは日本国憲法第一四条において、「法の下の平等」が保障されている。日本国憲法第一四条には、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と明記されていて、同条二項では華族や貴族のような封建的な世襲制度を廃止して法の下の平等を徹底させた。同項三項では栄典、勲章その他の栄転は世襲されずに一代限りとして、なんらの特権を伴わない物として栄転の性格を明らかにしている。この栄転は、栄転を与えられた者が当然に国会議員に成り得るというような平等原則を侵す特典を持つ事を禁止したと解されている。

 では、自由と平等ではどのように違うのかを述べていきたいと思う。17世紀あたりにホッブズやルソー、ロックが提唱した自然的平等の観念は「人間は生来、自由で平等な存在として生まれる」というものであり、ここから近代国家が始まった。またこの考えはアメリカ独立宣言やフランス人権宣言でも謳われている。しかし、実際のところは生まれてときからは人間が平等ではないと考えられる。例えば、生れた時に金持ちの家で生まれるのと貧しい家庭から生まれるのでは違う経験を今後持つ事になる可能性が高い。親の財産で子どもの生き方が左右されるかもしれない。さらに、男女の性別による不平等や、豊かな国で生まれるのかそれともインフラも整っておらず未発達な国で生まれるのかの格差から生じる不平等、また国が同じだとしても生まれた地域による違いからの不平等も実際には存在し、完全なる平等は存在しないと言える。また、あらゆる経済活動において自由が肥大化してしまうとますます貧富の差が開き、低所得者からくる不平や不満が起きる。あらゆることにおいて平等にしてしまえばこれもまた問題であり、努力量に見合う対価が得られず自由を獲得出来ない可能性も出てくる。

 ここで考えられたのが法の下の平等である。自由を追求すると必ず不平等が発生する。そのためにアダム・スミスが提唱した自由経済を基本としつつ、例えば所得の再配分制度といった経済的自由を制限して、積極的な平等及び自由を目指すことになった。このことから、自由と平等を受け入れつつ、これらを受け入れたことによる不自由と不平等をも受け入れていく必要があると言える。

 法の下の平等とは前述の通り、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と明記してある。これらを具体的に掘り下げていきたいと思う。「人種」とは人類学的区別であり、外国人であることを理由とする差別は含まれないが、原則としては外国人を差別しないことがこの意味するところである。人種差別はアメリカの黒人差別問題に象徴されるように、深刻な政治的・社会的な問題を引き起こしてしまうので禁止されている。「信条」とは宗教上の心情にとどまらず、広い範囲での内容である。続いて「性別」による差別の禁止とは男女同権の保証であり、国連が採択し、日本もこれを批准した女子差別撤廃条約は、あらゆる分野での同権を定めている。過去には雇用機会における差別や夫婦生活における女性差別が多く存在していた。「社会的身分」とは人の出生にもとづく社会的地位を意味する。このうち家族的な身分を指す家柄(華族や士族といったこと)は門地に当てはまるため、これは省かれる。従って、帰化人や被差別部落出身者などがそれの意図するところだと考えられる。第一四条後段はこれら列挙された自由を根拠として、広く政治的にも経済的にも社会的にも差別されないことを命じている。

 しかしこのような差別の禁止は絶対的なものではない、と言える。ここで禁止されていることは、正義に反する差別や合理性を欠く差別の事である。不合理な差別は違憲と判断される。合理的差別の例としては、年齢によって参政権や少年法上の特別の扱いをするといった権利や責任を区別すること、収入の多いものに対しては多額の税を課したり、医師や交通関係業者といった特殊な職業に従事する者に対しては特別な法的規制を加えるといったことは合理的差別として憲法の許容範囲内と言うことが出来る。ここで注意すべきなことは、何が合理的差別であり何が違憲であるのかを厳密に分けていなければ、ほとんどすべてのものが合理的な余地があるとして判断される可能性がある。

 例えば尊属傷害致死を重く罰する刑法の規定の違憲性が争われた事件にて、子の親に対する道徳義務という理由での合理的差別をした最高裁の考え方は合理性の論証を欠くとして違憲と判断された。もっともこれは刑が死刑か無期懲役しかないというものはあまりにも重すぎるものであり、目的達成の手段として著しく均衡を欠いているとして違憲とされたものである。この他、法の下の平等に関する事件としては非嫡出子相続分規定事件がある。これは非嫡出子には嫡出子の2分の1しか財産が相続されない民法の規定が、14条の法の下の平等(社会的身分による不合理な差別を禁止する規定)に反するのではないか、というものであり、上記の「社会的身分」に当てはまるかどうかが争点となった。これは当初は法の下の平等に反しないという判決が出ていたが、平成25年にて違憲判決が出された。当初は、民法は法律婚主義を採用しているため、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図った民法の当該規定は合理的理由がある、と判断されていた。また別の訴訟では女子再婚禁止期間事件がある。女性にのみ半年の再婚禁止期間を設ける民法の規定は憲法14条の法の下の平等に反するのではないか、が争点となった。この事件は法の下の平等における「性別」に関するものであり、男女を不平等に扱っているのではないか、とのことであった。判決は合憲、つまり法の下の平等に反しないとした。民法の規定は女性が懐胎した場合に、その子が前夫の子か、後夫の子かをはっきりと確定させるためにある、として合憲判決が生じた。

しかし、現在の科学技術の進歩によりDNA検査の技術が過去に比べると著しく発達した背景から今後はこの判決が違憲となる可能性もある。最後の具体例として議員定数不均衡問題がある。法の下の平等にて、わが国では一人一という「投票数の平等」に加え、その一票の持つ重みも同じであるべきという「投票価値の平等」も保障されている。例えばある県では80万票で落選したのにもかかわらず、ある県では同年、30万票で当選したという事例が過去何度も生じている。住んでいる場所によって一票の重みに格差が生じていることになる。

しかしだからといって、全国の選挙区を比べても一票の価値が同じになるのは現実的には不可能に近いと考えられている。ではこの状況の中で果たしてこれらの平等が守られているかどうかというのが争われた。最高裁の判断は「違憲状態」としている。違憲に近いが現段階では違憲ではない、という判断である。格差を是正すべき合理的期間の間では違憲とは言えず合憲としている。とは言うものの、学説上では「格差が2倍以上開けば実質一人に票となってしまうために違憲である」との見方が強く、これに関しても今後の最高裁の動向に注目すべきところであると言える。以上の例からも様々な判例があることが分かる。

 これらのことから法の下の平等について考えるにあたって、我々は自由と平等を唱えていく中で、これらの範囲についてしっかりと学ぶ必要があると思う。平等が行き過ぎれば人々の努力のやり甲斐等が失われる原因となりその結果自由が損なわれることに繋がったり、一方で自由が過度になりすぎれば平等が失われ人々の中で大きな格差の原因となる。こういったことを踏まえて法律を捉えていかなければならない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です